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音楽のように地球の声を建築に刷り込む
 
 どこまでも続く乾いた大地。次第に紫に染まる地平線。アリゾナの砂漠をひたすらクルマで移動していると否応なしに自分と地球の関係について考えさせられる。
 建築を巡るために世界放浪をしながら、毎日その都市と向き合い、人びとと向き合い、建築と向き合った8ヶ月間。仕事を辞めて旅に出た理由は、自分自身がどんな建築に心から感動するのか、そしてその中からおぼろげでも自分自身が目指したい建築のイメージは掴めるのだろうか、という問いに正面から向き合うためだった。結果として、いくつもの名作に心から感動し、勇気づけられ、長い旅を続けられたけれど、何かに突き動かされるようにハードな旅を続けることができたもう一つの理由は「地球が美しかったから」だった。
 
 1つの家族がある場所を定めて「すまい」をつくる。そこでは住まい手の人物像や趣味、敷地の持つ特性、そしてもちろん予算も大きく設計条件を左右していく。ともすれば<条件>を整理しているうちに自動書記のようにプランができてしまう場合もあるだろう。しかし、私はそこを<落としどころ>にしたくないといつも思っている。その理由は(極論を弄すれば)世界の美しさを知ってしまったからだと思う。
例えば、都市住宅になるほど、周辺環境は高密度になり、室内に太陽の光や通風を導くことが難しくなってくる。それでも挑んでそれらと共にある空間をつくるということが根本的なモチベーションとしてあるのだ。それほど、地球が日々我々に与えてくれる情報に対しては、ある種の信頼感を持って設計をしている。 
 「建築は凍れる音楽である」というのはゲーテの言葉。音楽好きの私にとっては非常に魅力的な響きであると同時に、違和感を感じる定義でもある。それというのも、空間にもたらされる光や風、人の動きというのは常に「時間」とともに移り変わっていくからだ。玄関に入り、気持ちを切りかえながらリビングに足を踏み入れる。浴室で体をケアしてからバスローブを羽織って寝室に向かう。というようなシークエンス(流れ)をデザインすることは勿論できるし、光や風の動きを読むことから生まれる空間の変化も、建築の中に<織り込んでいく>ことができるからだ。つまり建築は凍っているわけではなく「音楽そのものである」ということを、ずいぶん前から自らの出発点としていたように感じる。
 朝、太陽が昇っていく。その情報がどの場所に伝わると生活を彩るだろうか、寝室や朝食をとる食卓、朝早く何かを考える人にとっては書斎だろうか…。太陽が南中する昼、その季節で一番高い太陽の光を落とすためにふさわしい場所はあるだろうか。そして夕日。劇的なスピード感を持って刻々と光の色が変わり、夜へと移り変わるひとときをどう感じていられるのか…。それが季節によって変わる太陽高度によってバリエーション(変奏)され、さらにその日の天候によっても様相が変わる。だから、その時射しこむ光は無限にある可能性の一粒といえる。かけがえのない光なのだ。
 建築それ自体が「動く」わけではないけれども、丁寧にそこから享受される情報を設計に織り込んでいくことで、そのなかに佇む人に地球の動きを届けることができる。
 
 それから、もう少し音楽に喩えながら空間について考えてみると、楽器の音色や和声がいかに音楽の質を変えていくのかということにも気付く。だからその空間がどんな構造材や仕上げで構成されているのかということが重要になって来るのだ。それは劇的な差になる。同じメロディーでもアレンジによってはクラッシックにもロックにもなりうるのだから…。素材から細かなディテールまでを気にして図面に織り込む(時には現場でも修正を加えていく)というのは、1つの「音楽」として建築をつくるために必要なプロセスであると感じているからだ。そして、その建築にふさわしい音色や和声は敷地が変われば違ってくるし、住まい手によっても変わってくる。だから、基本的な条件を整理したあとでいつも「そもそも」に立ち返って改めて考え始める。それが設計する建築の可能性を押し広げているところがあるかも知れない。
 
 自然の美しさに目を向けていると、様々な瞬間に地球は応えてくれる。豊かな自然のある場所に旅をすると気付きやすいけれども、日常の中にあるそれは意識していないと日々の生活に埋もれてしまう。だから、なじみの街をいつものように歩いているときにそれを感じようとするためには、少しだけ感覚を研ぎ澄ます必要がある。私は「音楽のように」建築に地球のインフォメーションを刷り込んでいくことで、そこで暮らす人に<自然に>地球へ向き合う視線を獲得して欲しいと思っている。その手助けがきっと建築にできると信じているのだ。
 家の中に居ながらにして光の動きを感じ、雨の日は雨の落ちるのを楽しむ。そうして徐々に自分自身の存在が「地球の一部分」なのだと感じられるようになって来る。それは春がまた必ずやってくる、ということの確かさのようにその場所に「住まう」ということを肯定してくれるのではないかと考えている。
 
廣部剛司
「日本の住宅をデザインする方法2」(エクスナレッジ)に掲載された住宅設計論より
 

 
 
 
 
 
 
 
 
音楽のように地球の声を建築に刷り込む
 
どこまでも続く乾いた大地。次第に紫に染まる地平線。アリゾナの砂漠をひたすらクルマで移動していると否応なしに自分と地球の関係について考えさせられる。
 建築を巡るために世界放浪をしながら、毎日その都市と向き合い、人びとと向き合い、建築と向き合った8ヶ月間。仕事を辞めて旅に出た理由は、自分自身がどんな建築に心から感動するのか、そしてその中からおぼろげでも自分自身が目指したい建築のイメージは掴めるのだろうか、という問いに正面から向き合うためだった。結果として、いくつもの名作に心から感動し、勇気づけられ、長い旅を続けられたけれど、何かに突き動かされるようにハードな旅を続けることができたもう一つの理由は「地球が美しかったから」だった。
 
 1つの家族がある場所を定めて「すまい」をつくる。そこでは住まい手の人物像や趣味、敷地の持つ特性、そしてもちろん予算も大きく設計条件を左右していく。ともすれば<条件>を整理しているうちに自動書記のようにプランができてしまう場合もあるだろう。しかし、私はそこを<落としどころ>にしたくないといつも思っている。その理由は(極論を弄すれば)世界の美しさを知ってしまったからだと思う。
例えば、都市住宅になるほど、周辺環境は高密度になり、室内に太陽の光や通風を導くことが難しくなってくる。それでも挑んでそれらと共にある空間をつくるということが根本的なモチベーションとしてあるのだ。それほど、地球が日々我々に与えてくれる情報に対しては、ある種の信頼感を持って設計をしている。
 
 「建築は凍れる音楽である」というのはゲーテの言葉。音楽好きの私にとっては非常に魅力的な響きであると同時に、違和感を感じる定義でもある。それというのも、空間にもたらされる光や風、人の動きというのは常に「時間」とともに移り変わっていくからだ。玄関に入り、気持ちを切りかえながらリビングに足を踏み入れる。浴室で体をケアしてからバスローブを羽織って寝室に向かう。というようなシークエンス(流れ)をデザインすることは勿論できるし、光や風の動きを読むことから生まれる空間の変化も、建築の中に<織り込んでいく>ことができるからだ。つまり建築は凍っているわけではなく「音楽そのものである」ということを、ずいぶん前から自らの出発点としていたように感じる。
 朝、太陽が昇っていく。その情報がどの場所に伝わると生活を彩るだろうか、寝室や朝食をとる食卓、朝早く何かを考える人にとっては書斎だろうか…。太陽が南中する昼、その季節で一番高い太陽の光を落とすためにふさわしい場所はあるだろうか。そして夕日。劇的なスピード感を持って刻々と光の色が変わり、夜へと移り変わるひとときをどう感じていられるのか…。それが季節によって変わる太陽高度によってバリエーション(変奏)され、さらにその日の天候によっても様相が変わる。だから、その時射しこむ光は無限にある可能性の一粒といえる。かけがえのない光なのだ。
 建築それ自体が「動く」わけではないけれども、丁寧にそこから享受される情報を設計に織り込んでいくことで、そのなかに佇む人に地球の動きを届けることができる。
 
 それから、もう少し音楽に喩えながら空間について考えてみると、楽器の音色や和声がいかに音楽の質を変えていくのかということにも気付く。だからその空間がどんな構造材や仕上げで構成されているのかということが重要になって来るのだ。それは劇的な差になる。同じメロディーでもアレンジによってはクラッシックにもロックにもなりうるのだから…。素材から細かなディテールまでを気にして図面に織り込む(時には現場でも修正を加えていく)というのは、1つの「音楽」として建築をつくるために必要なプロセスであると感じているからだ。そして、その建築にふさわしい音色や和声は敷地が変われば違ってくるし、住まい手によっても変わってくる。だから、基本的な条件を整理したあとでいつも「そもそも」に立ち返って改めて考え始める。それが設計する建築の可能性を押し広げているところがあるかも知れない。
 
 自然の美しさに目を向けていると、様々な瞬間に地球は応えてくれる。豊かな自然のある場所に旅をすると気付きやすいけれども、日常の中にあるそれは意識していないと日々の生活に埋もれてしまう。だから、なじみの街をいつものように歩いているときにそれを感じようとするためには、少しだけ感覚を研ぎ澄ます必要がある。私は「音楽のように」建築に地球のインフォメーションを刷り込んでいくことで、そこで暮らす人に<自然に>地球へ向き合う視線を獲得して欲しいと思っている。その手助けがきっと建築にできると信じているのだ。
 家の中に居ながらにして光の動きを感じ、雨の日は雨の落ちるのを楽しむ。そうして徐々に自分自身の存在が「地球の一部分」なのだと感じられるようになって来る。それは春がまた必ずやってくる、ということの確かさのようにその場所に「住まう」ということを肯定してくれるのではないかと考えている。
 
廣部剛司
「日本の住宅をデザインする方法2」(エクスナレッジ)に掲載された住宅設計論より